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鳥井雅子 展: The Garden of Secrets

2022.03.05 – 03.19

絵を描くとき、 鳥井雅子はいつも心の中でかけがえのない特別な場所である「庭」を散歩します。
彼女の作品制作は、日常生活の延長線上から始まり、非日常へとゆっくり離陸していきます。
彼女は意識の世界、現実のモノや景色と夜寝るときに見る夢、無意識の領域の中間地帯を表現しようとしています。
そのような場所が人々の心の内にあると信じ、架空のテーブルの上にそんなモノ達の断片を置いていくのです。
鳥井は常に自分の中にあるかけがえのないものや場所を鮮やかに描き、「秘密の庭」として表現しています。
「秘密の庭」は、どんな人の心の中にも存在するかもしれません。
これらの美しい作品を、どうぞお楽しみください。

 

作家コメント:

‘‘美術大学の西洋画科の出身なのに、人体も油絵具という素材も苦手でした。
1970年代に京都市立芸術大学に入学した当時、時代はコンセプチュアルアートが主流でした。
しかし自分がどうがんばっても、人にサプライズをあたえるような、オリジナルなコンセプトを産み出し、それを洗練された形に転化していくのは、とても難しい。けっこう四面楚歌な状態で出会った版画教室が、私の出発点です。
恩師吉原英雄先生には、本当に多くのことを、作品をつくることの根源的な部分を教わりました。
学生時代~20代後半までは、リトグラフメインで、もしくは紙にドローイングで作品をつくっていました。
家族が増えて時間的な制約もあり、少しずつ版画からオリジナルに戻っていきました。
人体に代表される、マッス、塊を描くのが苦手なら、モノの表面を描くことで塊の内部の空気を描いてみようと思いはじめました。

作品を描きはじめるとき、まずある「架空の場所」を想定します。「架空の場所」とは、私自身の内なる、「秘密の庭」みたいなものです。
人は誰でも内なる「秘密の庭」を持っていて、普段はなかなかそこには行きつけない。
いつも目の奥に存在するけれど、容易にはそこに身をおいてみることは出来ない、そんな場所を想像しています。
意識と無意識の中間地帯に、記憶の断片のようなモチーフを配置していきます。
人体が苦手な私がサクサク描けるモチーフは、植物の有機的な形。
葉と茎が複雑にからみあって、空気を孕んだような形を、なぞっていくのがとても好きです。
マティスのジャズのように、バネット・ニューマンのように明快でシンプルな表現にあこがれるのですが、細部にこだわりがあって、細々と描きこまずにはいられない性格です。
水がたまっているところ、暑くて乾いた風、おだやかで湿った空気、
そんな場所と植物のディテールを絡み合わせることが、制作の出発展となります。

以前の個展に、小学校時代の親友が見に来てくれた。
数十年ぶりに再会した彼女は、私の作品をみて、「小学校の頃、いつも描いていた絵と変わってないねー。」
その言葉は驚きでもあり、かつ新たな発見でもありました。私が描いているのは、私自身の原風景でもあるのだと。
私は12歳まで、兵庫県宝塚市のはずれの、なだらかな山林や田畑に囲まれたのどかな住宅地で育ちました。
夜寝ている時に、夢に出てくるのは、いつもこの古い日本家屋の一室や庭です。
そして、ふとした時にこの場所のワンシーンをくっきりと思い出します。
夏の夕方、庭の草の上にとまった、ペパーミントグリーンのオオミズアオ(大型の蛾)。
羽化に失敗して殻から抜け出せずいる蝉の幼虫
蛙を飲み込もうとする青大将のシュールな光景。
小学校の前の側溝にいた、小さな真っ黒のおたまじゃくし。
草が生え、花が咲き、樹が生い茂り、小動物達が出入りしている身近な空間は、こどもの私には、とっておきの「密林」みたいなものでした。今でも心のどこかに「密林」のミニュチアをしまっている箱があって、時々絵を描くために、箱のフタをあけ中身を確かめてみる、そんなかんじでしょうか。
こうして自分や自作について考えていると、個人的なことに終始している自分に憮然となります。
まるで自宅の裏庭の小川でせっせとダムをつくるビーバーではないか。
このビーバーは時として何だかわからない横穴にスポッと落ち込み、しばらく抜け出せない。
そのうちに穴から這い出して、またダムを無駄にふやしている。私が作品をつくる行為は、そんなかんじでしょうか。
ビーバーのダムに何か意味があるのかと問われると、困ってしまう私がいます。

「人は誰でも人生の用事をもっている」と、夭折したある画家の言葉です。
「絵を描くことは、私の人生の大切な用事なのだ。」と思うことが、日々の描く私を支えてくれています。
私の作品はほぼ、紙やキャンバスといった支持体に、アクリル絵具を主に日本画のための岩絵の具、色鉛筆、コンテなどを使い、手で描かれています。
「ヒトには産まれたときから使ってきて、何でも考えて、何でもつくってきた手があるじゃないか、人類は手を使かわなくなったら、おしまいだ!!」という思いで、手で描いているのです。。”   鳥井雅子